今日は誕生日

あらまし

雑談です。

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今日3月11日は23回目の誕生日である。 筆者が生まれた1997年3月は、秋田新幹線の開業や500系新幹線の営業運転開始、いすゞ・ビークロスの発売などワクワクするできごとがたくさんあった月である。 そもそもこの年に限らず、3月はなにかとこころ浮き立つ月である。 長い冬が終わりポカポカしてくるとともに、ダイヤ改正を始めとした楽しいイベントもたくさんある。 そのような月に自身が生まれたというのをわりと昔から気に入っており、ほかの人に比べて誕生日を話題に持ち出すことが多かったように思う。 f:id:pur_usupr:20200311132427p:plain

ところが、2011年の誕生日は、前にも後にも例がないものとなった。 ご存知、東日本大震災が起こったのだ。 筆者自身はといえば、幸い人的にも物的にも被害はなかった。 ただ、停電が発生したため、ココスに行く予定がキャンセルになり、寒い家の中で冷たいごはんを食べた。 もっと辛い思いをした方もたくさんいたであろうから、ここで不幸自慢をするつもりはまったくないのだが、それなりに寂しい思いをした。

以降、毎年3月11日は、故人や当時の出来事に思いを馳せ、多くの人が悲しみに暮れる日となった。 もちろん、これはとても大事なことである。 ここでその意義を議論することはナンセンスであろう。 筆者自身も当時の出来事を思い出し、いろいろと物思いに耽る。

ただ唯一、筋が違う主張を展開する人々がいる。不謹慎厨の人々である。 彼らの主張は「我々は当時を思い出して悲しんでいる。だからお前はウキウキするな。」というものである。 前半はわかる。おかしいのは後半だ。せめて、「だからお前も一緒に悲しんでくれ。」だったらまだ理解できる。 ただ、筆者のように一部の人にとっては1年の中で唯一の記念日だったりするわけで、 そうした人々からウキウキを剥奪する (誕生日であることを公言することさえ許さないような空気もあった。) というのはちょっと間違っていて、少しは寄り添って下さいくらいにすればよいのだ。 言われなくてもそうする。 この件については、アンサイクロペディアにいい記事が乗っている。

2011年の3月11日には宮城県沖を震源とする東日本大震災が発生した。それを受けて翌年以降3月11日は震災を考える日として黙祷をささげ決意を新たにする日だという人たちもいる。ただ誰かにとって祈るべき日は誰かにとっての誕生日であり結婚記念日であったりもするのだ。だからこそ今日はあくまで普通の日である。震災関連ではないイベントを開くことや、地震のことを考えないでいることを不謹慎と批判するのはおかしい。3月11日は前を向いて生きていく366日のうちの一日であり、普段と同じように、楽しむことは楽しみ頑張るべきことは頑張る日なのだ。復興を祈る心は当然必要である。しかし、同時に誰かの幸せを祝う気持ちも忘れてはならない。

https://ansaikuropedia.org/wiki/3%E6%9C%8811%E6%97%A5

この件に限らず、日本人(のツイッター民)にはどうにもこういう思考回路を持つ人が多い気がする。 典型的な例は、「自分が貧乏だから、きみも贅沢するな。」である。 おそらく戦時中の「欲しがりません、勝つまでは。」にルーツがあるのだろう。 この戦時中の発想を日本人の美徳と勘違いしている人がいるのではないだろうか。 この辺の議論に興味がある方は、数学者藤原正彦氏の著書に是非目を通してほしい。 特にオススメなのはこの本。日本人であれば必読であろう。

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ちなみに藤原氏の著書では、国家と教養もおもしろいので是非読んでいただきたく思う。